アジアのチェンジメーカー・ネットワークのメンター
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アイリーン・シェパード(旧姓ブラウン)、1921年~2013年
南オーストラリア州の小さな農業都市に生まれたアイリーンは、6歳のときに父親を結核で亡くし、大恐慌の時代には一家は経済的に苦境に立たされた。秘書の訓練を受け、1947年に退職するまで銀行で働いていたが、メルボルンの道徳再武装事務所のスタッフに志願。1950年からはスイスのコーで開催されたMRA会議を支援し、広島・長崎両市長を含む50人の日本人代表団が参加した際にも同席した。また、英国で行われた「The Forgotten Factor」の巡回公演にも参加した。1952年、コーでフランク・ブッフマンが各国首脳の招きに応じてインドに同行するボランティアを募ったとき、アイリーンは真っ先に立ち上がった。1958年に結婚したオーストラリア人の夫スタン・シェパードとともに、それから1973年までの13年間、アイリーンはインドで働いた。 1961年、二人はラジモハン・ガンディー率いる「国家横断行進」に参加し、多くの若いインド人を参加させ、マハラシュトラ州に「アジア高原」センターを設立させた。1973年、40人の若いアジア人たちとともにミュージカル『ソング・オブ・アジア』に参加したのも、このセンターからだった。その過程で、シェパード夫妻は多くの若者の指導者となり、日本、台湾、インド、フィリピン、マレーシア、太平洋地域にMRAチームを設立する手助けをした。